« 火器の使用、歩兵、弓兵が重視されるようになって | メイン | 学士の称号の広がり »

西洋文明が社会学的知識を発達させるのに

西洋文明が社会学的知識を発達させるのに数世紀先立って、14世紀イスラームの学者イブン=ハルドゥーンは、様々な社会は普遍的な原因によって誕生、成長、衰退を経て最終的に死に至る循環をくり返す生き物であると述べていた。とはいえ、社会や文化が徐々に変化していくという理論は近世ヨーロッパ思想では一般的であった。18世紀以前の大半のヨーロッパ人は社会は現世では衰退期にあると信じていた。ヨーロッパ社会は古典古代を憧憬すべき規範と考えており、古代ギリシアと古代ローマが到達していた技術水準に追いつくことを中世のヨーロッパ人たちは望んでいたのである。同時にキリスト教は、エデンの園や天国より根本的に劣った堕落した世界に人々が住んでいると教えていた。しかし啓蒙時代にはヨーロッパ人の自信は増し、次第に進歩の考え方が広まっていった。後年社会進化論や文化進化論の名で呼ばれるようになるもののルーツはこの時期にある。

啓蒙思想家たちはしばしば社会がいくつもの発展段階を踏みながら徐々に進歩していくと考え、人類史の展開過程を明らかにする論理や秩序といった一連の科学的知識を探し求めた。一例を挙げればゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、ドングリがやがて樫の木になる他ないように、社会発展も不可避的で決定づけられた過程であると論じた。つまり社会もドングリと同様に、原始社会(ホッブズ流に言えば自然状態)から出発して、工業化されたヨーロッパのような状態に進歩していくのが当然であると考えられていたのである。

時が経つにつれ社会も変化していくという議論はミシェル・ド・モンテーニュのような学者も行っているが、社会的文化的進化の展開の重要性がはっきりと認められたのはもっと後、スコットランド啓蒙においてであった。スコットランドが1707年にイングランドと合邦した後、スコットランドの思想家たちの中に、イングランドとの交易の増大や交易によって生まれた富が進歩と「退廃」をもたらしたとすれば、進歩と退廃とはどういう関係にあるのかということに思いをめぐらす者たちが現れた。その成果が一連の仮説的な歴史である。アダム・ファーガソン、ジョン・ミラー、アダム・スミスらによれば、どんな社会も4つの段階を順次通過する。すなわち狩猟・採集、牧畜・遊牧、農業、商業の4段階である。つまりこれらの思想家は、スコットランドが経験しつつある変化は農業社会から商業社会への移行だと理解していたのである。

ドイツの哲学者ヘーゲルらが唱えたような哲学的な進歩概念もこの時期に形成された。フランスではエルヴェシウスらの哲学者がこのスコットランド的伝統の影響を受けた。その後もこの思想はサン=シモンらによって発展を遂げた。特にオーギュスト・コントは社会進歩についてのまとまった見解を示し、それを研究する新しい学問分野を提起した。すなわち社会学である。創成期の社会学者たちは数十年をかけてこの新しい学問分野を定義しようと試みた。この努力の過程で社会学は、他の学問の方法論や内容から示唆を受けたり、研究者の想像力によって新規に考案されたりしながら、様々に枝分かれをしていった。
頭痛
オーパーツ
社交ダンス
惑星
ラフティング
爬虫類
キャンプ
流鏑馬
犬ぞり
華道
日本の建築
家電の昔
江戸の歴史
湯・茨城
湯・山口
安土桃山時代
湯・長崎
裁判所について
アリさんの一日
カラオケ・ばんばん

こうした発展はもっと広範な文脈で生じた。第一の過程は植民地主義である。列強は被植民者との意見対立を大抵の場合武力で解決してきたが、非西洋人の民族的自覚が増すにつれ、社会や文化とは何かという問いがヨーロッパの学者にとって改めて問題になった。同様に、植民地運営を効率的に行うためには他の文化をある程度まで理解することも必要であった。社会文化的進化の理論の勃興によってヨーロッパ人たちは、徐々に度合いを増しつつある彼らの他者に対する政治的経済的支配を反映し正当化するような仕方で、こうした新しい知識を組織することができたのである。被植民者は進化の度合いが低く、植民者は進化の度合いが高いとされたのである。17世紀イングランドの哲学者トマス・ホッブズが原始人を「技術も学問も社会もない」状態で暮らしており「孤独で貧しく醜悪、愚鈍で欠乏した」生活を送っていると描写したとき、彼はまさしく「野蛮人」についての広範に広まった考え方を述べていたのである。善良で文明的なすべてのものはこの低位の状態からゆっくりとした発展をたどって生じる。ヴォルテールのような合理主義の哲学者でさえ、啓蒙時代が人類の上昇的な進歩が次第にもたらした帰結であると暗黙のうちに考えていた。

第二の過程は産業革命の開始と資本主義の勃興であり、これによって生産手段における持続的な革命が行われ、促進された。社会進化や文化進化についての理論の出現は、産業革命と資本主義によって引き起こされたヨーロッパの変化が明白な改良であったという信念の反映なのである。工業化の進展に加えて、民主主義の支配への道を開いたフランス革命、合衆国憲法と1791年5月3日のポーランド憲法の制定によってもたらされた重大な政治的変化が生じたこともあって、ヨーロッパの思想家たちは、社会がどのように組織されたかについてそれまで前提してきた考え方のいくつかを再考せざるをえなくなったのである。

やがて19世紀になると、社会変および歴史変化についての3つの偉大な古典的理論が作られるようになった。すなわち社会文化的進化、社会循環論、マルクス主義史的唯物論である。これらの理論には共通する要素が一つある。いずれも人類史の辿る道筋は固定されていると考えており、多くの場合それは社会進歩の道であるとされていたのである。それ故、過去に起こったひとつひとつの出来事は、時代的前後関係というだけではなく因果関係の上でも現在および未来の出来事と結びついている。それらの一連の出来事を再現することを通じて社会学は歴史法則を発見することができるのだ、とこれらの理論は論じたのであった。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kftrii.com/blog/mt-tb.cgi/645

About

2009年06月22日 10:44に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「火器の使用、歩兵、弓兵が重視されるようになって」です。

次の投稿は「 学士の称号の広がり」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35